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あるいはわたしの自由研究
蜘蛛の話【 Ⅱ 】

 翌朝、わたしは日も昇りきらないうちに家を発った。

 静かな朝だった。

 あの蜘蛛は昨日とかわらずそこにいた。

 朝露に濡れた巣は、ビーズをとおしたように露の玉が規則的にならんでいる。横糸は重みでわずかに垂れさがり、綺麗なカテナリーをえがいている。山際から差し込む朝日を透かして、水滴は宝石のようにきらめく。その中心に鎮座する蜘蛛はまるで着飾った女王のようだった。

 ほう、と溜息をつきながらわたしは幻想的な姿を写真におさめる。

 そしてスカートをたくしあげショーツをおろす。

 もちろん格好は立ったままだ。

「ん、ふぅっ……」

 ちょろちょろという音が清々しい静寂にしみわたってゆく。

 朝一番は昼間や夕方のよりもいくらか黄色がかって、かすかに湯気がたっている。

 夏といえど早朝の木陰は結構ひんやりしている。むきだしの肌がすうすうする。腰から背中にかけて寒気を感じ、わたしは一度ふるりと震えた。

 わが家では、みんな朝食の前に用足しをすませる。そうしなければ不作法といわれてしまう。だから朝に『研究活動』をするには、この早い時間に起きるしかなかったのだ。

 わたしは蜘蛛を見る。

 あいつをじいっと観察する。

 飛沫がぱらぱらと当たって糸をゆらし、振動によってビーズ玉は地面に落ちてゆく。

 けれど蜘蛛は動かなかった。

 化石したようにじっとしたまま身じろぎもしない。

 ――もしかして、わたしの勘違いだった?

 昨日この蜘蛛が反応したのも、何かの偶然でそうなっただけで、わたしのしたことは何の関係もなかったのでは。だとしたら、わたしはなんと無駄な決意をしたんだろう。

 思った瞬間、永い眠りからさめたようにびくりと蜘蛛は動きだした。飛沫が巣をゆらす地点まで。

 ――わぁ。

 わたしは歓喜の息をもらした。

 わたしは間違っていなかった。目の前の事実がそれを立証している。自信の芽が心に根づくのを感じた。胸はかつてない「わくわく」にふるえていた。

 わたしは次なる『実験』に移行することにした。

 半歩横に移動しつつ腰をひねって、飛沫の当たる位置を変更する。巣の右端から左端へと。

 それにしても、出る方向を調節するのはそう簡単ではなかった。

 左右はともかく上下は結構むずかしい。下手に力のくわえかたを間違えると流れの方向とは関係なく変な方向へ飛び散ってしまいそうだった。草やすこしの泥ならまだしも、服を黄色いシミにして帰ったら母になんと言われるかわからない。

 前に男子がしているのを偶然に(偶然!)見かけてしまったことがある。

 彼はホースの先でももてあそぶように自由に方向を変えていたような気がした。何かやり方があるのか、それとも構造自体に越えがたい差異があるのか、わたしにはわからなかった。せめて後ろだけでなく前からも観察しておけばよかったかもしれない。

 そんなことを考えていると、蜘蛛はすでに動き出していた。うれしいことに、わたしが予想していたとおりの動きだった。

 蜘蛛はのそりと身体の向きを転回させ、右端から左端へ、わたしがあらたに飛沫を当てている場所へと忍びよってきた。

 ここから、すくなくとも二つのことがわかる。

 一つは、蜘蛛は巣の中心にいなくても――たぶん巣の上ならどこでも――糸の振動を感知して獲物が掛かったことを知ることができる。わたしが位置を変えてから、いったん中心に戻ったりせずに真っ直ぐ次の位置へ移動したことから明らかだ。

 もう一つは、蜘蛛の移動する速さは前方へ進むのにくらべて、身体の向きを変えたりするのはずっと遅いということだ。ちいさな節足動物がおどろくほどの速さで移動するのは、バッタやゴキブリを見てわたしでも知っている。けれどどうやら、その瞬発力はもっぱら直線的なようだった。

 ――はあぁ。

 好奇心が満たされてゆく。

 本や授業から知識を得るのとは違う、わたし自身の行為から得られる知見。たとえ同じことが本に載っていたとしてもかまわない。わたしの体験はわたしだけのものなのだから。わたしと世界の歯車がしっかりと噛みあったような感覚。それを舌の上にのせて味わう。

 その味は砂糖菓子のように甘いと知った。

 いままで経験したどんな遊びより楽しいかもしれなかった。息は自然とはずんでいる。身体の芯が熱っぽくなっている気がした。

 あの、ぞくぞくする奇妙な感覚が背中から首筋まで這いよるのを感じる。

 この感覚にはまだ知らない先があるように思えた。

 さあ、次は――、

「あっ」

 さらなる『実験』をしようと思ったところで、水流はあっというまに勢いをなくし止まってしまった。

 わたしは残念だった。

 けれど『研究活動』に確信をもてたことは確かだ。理由はわからないけれどこの先に――何か素晴らしいものが待っているような、そんな予感がしていた。

 蜘蛛は、またのそのそと巣の中心に戻ってゆくところだった。

「……またね、蜘蛛さん」

 すこし乱れた呼吸のまま呟いて、わたしはその場をあとにした。